第29回 学而第一(16)

論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。

今回は、学而第一(16)です。学而篇の最後になります。

 

書き下し文と逐語訳を並べて示します。

学而第一(16)の書き下し文と逐語訳(1)

子曰く、

:先師がいわれた。――

人の己を知らざるを患(うれ)えず

:「人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。

人を知らざるを患うるなり。

:自分が人を知らないということが心配なのだ。」

 

本章のように短い章は、文脈が定かではありませんので、様々な解釈が可能になり、正しい解釈を求めるのは困難です。一方で、文脈を自由に想定して楽しめるという面もあります。まずは、これまで学而篇で学んできたことを文脈とみなして解釈します。

人の己を知らざるを患えず

「ブログ第5回:学而第一(1)」に「人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」とありました。本章のこの節も同じ意味とみなすと次のように解釈できます。

「修養(学びや実践)を積むと、自分の評価が気になることもあるだろう。評価が低ければ落胆し、心も乱れるだろう。しかし、評価の如何にかかわらず、引き続き修養を積むしかないのだから、君子と言われるような人物は、人の評価を気にせず切磋琢磨しているものだ」孔子は説きます。それが「人の己を知らざるを患えず」です。

人を知らざるを患うるなり

「ブログ第17回:学而第一(7)」では「賢を賢として色に易(か)え」、「ブログ第26回:学而第一(14)」では「有道に就きて正さば」とありました。君子は「賢者/君子/有徳の人」を識別て、その人から学びます。本章のこの節にもその意味が込められているとみなすと次のように解釈できます。

孔子「自分の才能や実績を気にする前に、そもそも、他者の才能や実績を認めることができるくらいの見識を備えているのか?(備えていないだろう?)」と問い、「君子と言われるような人物は、己の未熟さを自覚し、切磋琢磨しているものだ」と説きます。それが「人を知らざるを患うるなり」です。

 

さて、ここからは、今の私たちに合う文脈を想定して解釈を楽しもうと思います。

2022年7月10日に参議院議員選挙がありました。いつもの事ながら、名前の知られた人に票が集まりました。議員に限らず、今の私たちにとっては「知られているか/認められているか」が大きな関心事になります。その文脈で本章を解釈してみましょう。

訳1:本ブログの主観読みによる解釈

「自分の良さを知って欲しい/認めて欲しい」と思うことがあるだろう。そのときに、

「その人は自分の良さを分かっていない」と嘆くのは賢いとは言えない。

「自分の良さをその人に分からせること」が大切なのではない。

「その人の関心(何を良いと思っているのか、など)を知ること」が大切なのだ。 

そうして、その関心に合わせて、自分の良さを分かってもらうようにすればよいのだ。

訳2:訳1を「商品と顧客」にあてはめて解釈します

商品を顧客に購入してもらいたいときに、

「顧客は商品の良さが分かっていない」と嘆くのは賢いとは言えない。

「商品の良さを顧客に分からせること」が大切なのではない。

「顧客の関心(その商品に何を求めるのか、など)を知ること」が大切なのだ。 

そうして、顧客の関心に合わせて、商品の良さを分かってもらうようにすればよいのだ。

 

マーケティングの世界では、プロダクトアウト/マーケットインという方法が知られています。

プロダクトアウトとは「商品を提供する側の価値観に基づいて商品を企画する方法」を言います。商品を提供する側が専門家集団であるときによく採用されます。

マーケットインとは「商品を購入する側(顧客)の価値観に基づいて商品を企画する方法」を言います。ターゲットとなる顧客の関心、好みなどを調査し、分析して売れる商品を企画します。

それぞれ、一長一短があり、単純ではありませんが、歴史的に見れば、昔はプロダクトアウトが主流でした。情報技術の向上に伴い分析力が高まり、今ではマーケットインが主流になっています。解釈2は、そのマーケットインの意義が語られています。

つまり、孔子は2500年前に、マーケットインの意義を説いていた!」とみなすことができるわけです。凄いですね!

その本質は、解釈1にあるように、人間関係においても適用することができます。

このように、想像力を発揮して私たちに合う解釈を楽しむことができるのが論語の特長です。その特長により、論語はこれからも「その時代に相応しい解釈」が為されて、読み継がれていくことでしょう。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

 

参照・引用

(1) 書き下し文と逐語訳は、以下を引用・参照、編集して採用させて頂きました

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

逐語訳:下村湖人『現代訳論語青空文庫

 

 

第28回 学而第一(15)

論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。

今回は、学而第一(15)です。

書き下し文と逐語訳を並べて示します。

学而第一(15)の書き下し文と逐語訳(1)

子貢(しこう)曰く、:子貢が先師にたずねた。――

貧にして諂(へつら)うこと無く、富んで驕(おご)る無きは如何(いかん)。
:「貧乏でも人にへつらわない、富んでも人に驕らない、というほどでしたら、立派な人物だと思いますが、いかがでしょう。」

子曰く、可なり、
:先師がこたえられた。―― 「先ず一とおりの人物だといえるだろう。

未(いま) だ 貧にして樂み、富みて禮(れい)を好む者に若(し)かざるなり。
:だが、貧富を超越し、へつらうまいとか驕るまいとかいうかまえ心からすっかり脱却して、貧乏してもその貧乏の中で心ゆたかに道を楽しみ、富んでもごく自然に礼を愛するというような人には及ばないね。」

子貢曰く、
:すると子貢がいった。―― 「なるほど人間の修養には、上には上があるものですね。

詩に云(い)う、切するが如(ごと)く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如しとは、其(そ)れ斯(こ)れの謂(い)いか。
詩経に、切るごとく、磋るごとく、琢つごとく、磨くがごとく、たゆみなく、道にはげまん。とありますが、そういうことをいったものでございましょうか。」

子曰く、賜(し)や、始めて興(とも)に詩を言う可(べ)きのみ、
:先師は、よろこんでいわれた。――「賜よ、お前はいいところに気がついた。それでこそ共に詩を談ずる資格があるのだ。

諸(これ)に往(おう)を吿げて、而(しこ)うして來(らい)を知る者なり。
:君は一つのことがわかると、すぐつぎのことがわかる人物だね。」

解説

長い章なので、今回は主観読みによる訳は割愛して解説をします。

孔子に、弟子の子貢が、「貧乏でも諂わない。富んでも驕らない」という生き方は善き生き方だと思うのですがいかがでしょうか、と問います。孔子は「それもよかろう」と答えます。同意できる人は多いと思います。ところが、孔子は、その生き方は「貧しくても楽しみ、富んでも礼を好む」という生き方には及ばないと付け加えます。

なぜ「より善い」のでしょうか。その理由を考えるのが本章のメインテーマです。

「諂わない/驕らない」「楽しむ/好む」のキーワードに着目して考えてみましょう。主体性の発揮の方向が逆であることに気がつきます。前者は「~しない=行動の制約」という方向を、後者は「楽しむ/好む=主体的=成長/行動の拡がり」という方向を向いています。

また、「諂わない」は「道を楽しむ」に包含されます。後者は前者よりも抽象度が高いと言えます。

孔子「“主体性を活き活きと発揮する生き方”の方がより善いだろう?その中にお前の言う善き生き方も含まれるだろう?」と説いたわけです。

論語には「楽しむ/好む」がよく見られます。論語の冒頭:学而第一(1)の「学び」にもありました。本章でも「楽しむ=道を楽しむ=学び(修養)を楽しむ」とみなすことができます。それが主体性の発揮の中身です。

子貢も、「楽しむ/好む」に「修養に励む」が含意されていることに気づき、「詩(詩経)」(2)にある言葉を思い出したのではないでしょうか。それが「切磋琢磨(=玉を磨くこと=自分自身を磨くこと=たゆまぬ修養)」です。そうして、孔子の説く生き方がより善いことを理解したのだと思います。

思いがけなく、詩を用いて的を射たリアクションをした子貢に対して、孔子「共に詩を語り合える人物だ!」と絶賛します。孔子は常々弟子達に「詩を読み、詩から学びなさい」と指導していました。しかし、孔子の期待に応える弟子は少なかったようです。

更に孔子「往を告げて来を知る者だ!」と感心します。これは当時知られていた熟語で「少し話を聞いただけで、語られていないことまで推察できる(一を聞いて十を知る)人」を指します。

子貢のとったリアクションを一言で言えば「打てば響くようなリアクション」と言えます。孔子の褒めようから「打てば響くようなリアクションを返してくれる人とのコミュニケーションがいかに楽しいものか」がよく伝わってきます。

なお、当時の人は、本名と字(あざな)(3)を持っていました。孔子が呼んでいる「賜」は本名(姓は端木(たんぼく)、名は賜(し))です。「子貢」は字です。

現代人が大切にしている価値観に「自由」があります。その自由の本質は「主体性を活き活きと発揮できること」であることはよく知られています。

本章で孔子が語る善き生き方に、現代の自由の本質を感じとることができます。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

参照・引用
(1)    書き下し文と逐語訳は、以下を引用・参照、編集して採用させて頂きました
   書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE
   逐語訳:下村湖人『現代訳論語青空文庫
(2)    『詩経』・国風・衛風・洪澳(きいく)
(3)    コトバンク 字(あざな)
「長上の者に対しては自分を本名でいい、同輩以下の者には字を使い、他人をよぶときにも字を使い、とくに目下の者に対する場合や、親や師がその子や弟子をよぶ場合には本名を用いました。」

 

第27回 学而第一(14)その2

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今回は、学而第一(14)その2。前回の続きです。

 

書き下し文と逐語訳を並べて示します。

学而第一(14)の書き下し文と逐語訳(1)

子曰く、君子:(先生がおっしゃった。君子はー)

食は飽くことを求むる無なく、居は安きことを求むる無し、

:飽食を求めず、安居を求めず、

事に敏にして、而して言を愼(つゝし)み、

:仕事は素早く、言葉はひかえ目、

有道に就きて正さば、

:有徳の人に就いて自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることに努力している。

學を好むと謂(い)うべきのみ。

:こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ。

 

本ブログでは、次のように解釈しました。

訳:本ブログの主観読みによる解釈

君子は以下の特徴を持つ。

1. 欲望に支配されない

2. 仕事が早い

3. 自分を成長させてくれる人々と親交を深める

4. 学びを好む

  

本章は君子の特徴を述べています。ここでは、今の私たちに合うように、「専門領域において優れている」かつ「人格者」を君子と呼ぶことにします。

前回は特徴1について見ていきましたので、今回は残りの特徴を見ていきます。

2. 仕事が早い

「君子は、行動(善いことへの取り掛かかり)は素早い、言葉は慎重で少ない」というイメージを孔子は持っています。孔子は、言葉よりも実践が大切だと考えていて、言葉が先行することを嫌っていました。この一文には、その考えがよく反映されています。

今の私たちの社会では、言葉も大切ですので、ここでは、「言葉は、必要十分で無駄がない」と解釈したいと思います。そのことは、特に、「仕事ヘの取り組み」という側面に当てはまりますので、文全体をその側面から解釈することにします。

君子は、やるべき事を的確に理解するので、速やかに行動に移すことができ、速やかに結果を出すことができます。そして、余計な修飾語を用いたりせずに、無駄の無い必要十分な報告を行います。そのような人に対して「仕事が早い」という言い方がよく使われます。

君子は「仕事が早い=行動は速やか、言葉は必要十分」という特徴を持ちます。

3. 自分を成長させてくれる人々と親交を深める

前回のブログを読んだ方から、この特徴に関して「人生においてはメンターも必要ですね」という感想を頂きました。「手本になる人から学ぶ」は今も昔も同じです。ちなみに、メンターとは「良き指導者、優れた助言者、恩師のことで、仕事やキャリアの手本となり、助言・指導をしてくれる人材のこと」(2)です。有道の人と言えるでしょう。

少し注意が必要なのは、君子は、「自分を成長させてくれる人」を主体的に識別し、その人と親交を深め、その人から学び、自分を成長させる、という点です。

論語では「人を知ること=賢者を識別すること」の大切さがよく語られます。それだけ人の識別は難しいのです。百点満点の完璧な人を探すのではなく、特定の側面でよいので「手本になる人」を見つけるのが現実的です。

4. 学びを好む

君子は、己の未熟さを自覚しています。だから、学びを怠りません。

また、学びによって自分が成長することを楽しみます。だから、学びを好みます。

本ブログの君子の定義から、君子の学びの対象は「専門性」と「善き生き方」です。

今の日本では、学校で前者を学べます。

孔子は「善き生き方」を語りました。その言葉が織り込まれた論語は、江戸時代には広く、深く学ばれていました。これが典型的な後者の学びです。

世界史的に見れば、近代資本主義の興隆によって、人々の関心が「モノの豊かさ=お金」に向けられるようになり、「モノの豊かさをもたらす=善」「道徳的/倫理的=善」の上位に位置するようになりました。

更に、今の日本では、前者の「善」にとって役に立たないものを学ぶ必要はないとみなされるようになりました。学校で、論語などの古典を学ぶ機会が激減しているのも、その理由があると考えられます。このことは「善き生き方」を学ぶ機会の減少を象徴しています。そのせいか、日本では「精神の無い専門家、魂のない享楽的な人間」(2)が増加し、君子が減少しているように思えてなりません。

そのような社会だからこそ、君子の特徴や、君子の今日的意義を考察することには意義があります。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

 

参照・引用

(1) 書き下し文と逐語訳は、以下を引用・参照、編集して採用させて頂きました

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

逐語訳:下村湖人『現代訳論語青空文庫

(2) コトバンク「メンター」

(3) マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

第26回 学而第一(14)その1

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今回は、学而第一(14)その1です。

前回と同様に、書き下し文と逐語訳を並列に示します。

学而第一(14)の書き下し文と逐語訳(1)

子曰く、君子:(先生がおっしゃった。君子は ―)

食は飽くことを求むる無く、居は安きことを求むる無し、

:飽食を求めず、安居を求めず、

事に敏にして、而して言を愼(つゝし)み、

:仕事は素早く、言葉はひかえ目、

有道に就きて正さば、

:有徳の人に就いて自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることに努力している。

學を好むと謂(い)うべきのみ。

:こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ。

 

この逐語訳を基に、その意味を主観的に捉えて、今の社会に当てはまる教訓を見出し、日本語として自然になることを意識して訳してみました。

訳:本ブログの主観読みによる解釈

君子は以下の特徴を持つ。

1. 欲望に支配されない

2. 仕事が早い

3. 自分を成長させてくれる人と親交を深める

4. 学びを好む

 

本章は、君子の、典型的な特徴を述べています。

今の私たちの社会で言えば、学問、スポーツ、芸術など「その専門領域において優れている」かつ「人格者」、身近な例では、「勉強ができる」かつ「人としても立派な」学校の同級生/先輩、「仕事ができる」かつ「人として尊敬できる」職場の同僚/先輩/上司、などが君子に相当します。

君子として思い浮かぶ人は、本章が示す特徴を備えているでしょうか。

孔子は、目指すべき人物像として君子を捉えています。

備えたいと思う特徴はあるでしょうか。

その点にも注目して、君子の特徴を詳細に見ていきましょう。

1.    欲望に支配されない

たとえば、「食べたい」という願望は、通常、身体の「健康を維持したいという要請(根本的な目的)」から生まれます。そのような願望は、その目的が達成されれば収まります。ここではそれを欲求と呼びます。

ところが、美味しいものを食べると「更に、美味しいものを食べたい」という願望が生まれることがあります。そのように「更に、願望が生まれ続ける」という特徴を持つ願望をここでは欲望と呼びます。

欲望には終着点がありませんので、節度で制する必要があります。

もし、欲望に支配されると、節度が保てなくなり、根本的な目的を損なってしまいます。

たとえば、「食べる」という願望において節度を保てないと、食べ過ぎで、身体の健康を損ないます。

君子は欲望に支配されず、節度を保ちます。

欲望に支配されず、節度を持つ社会

君子という「個人」から個人の集合である「社会」に目を向けてみましょう。

「資産を増やす」という欲望があります。「資産が増えれば、更に資産を増やしたくなる」・・・資本主義がこの欲望に支えられていることはよく知られています。

ですから、従来の資本主義に基づくシステムは、その欲望に節度をもたらす仕組みを備えていました。

しかし、その仕組みを取り除き、節度を捨て、欲望を解放し、その欲望の支配を受け入れるシステムが現れ、世界に拡がりました。新自由主義に基づく経済システムです。

その結果、極一部の者に富が集中し、世界的に格差と貧困が拡大しました。

そこで、「経済システムは何のためにあるべきなのか?」という根本から見直し、社会の健全さ(特に、公益)、更に、地球環境の健全さまでを考慮した、新たなシステムが提案され、試行され始めました (2)

「欲望に支配されず、節度を持つ社会」への転換が始まっています。

今の日本は、相変わらず新自由主義者が力を持ち、政策決定に影響を与え、格差と貧困は拡大し続けています。日本の多くの有権者がおかしいと気づくまで国力は衰退し続けるでしょう。その気づきを助けるという意味でも、君子の特徴1は、教訓としての意義があります。

 

今回はここまでです。
注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

 

参照・引用
(1)    書き下し文と逐語訳は、以下を引用・参照、編集して採用させて頂きました
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE
逐語訳:下村湖人『現代訳論語青空文庫
(2)    「ドーナツ経済」、「ミュニシパリズム」など

 

第25回 学而第一(13)

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今回は、学而第一(13)です。

 

本章は「この章の解釈には諸説あるが、いずれも今一つ判然としない(井波律子『完訳 論語』)」と言われるように、分かり難い章です。そこで、理解しやすいように、書き下し文と逐語訳を並列に示すことにしました。

 

学而第一(13)の書き下し文と逐語訳(1)

有子曰く、:(有先生がおっしゃった)

信、義に近ければ、言(げん)復(ふ)むべきなり、

:(約束が、道理にかなっていれば、約束の通り遂行するべきだ)

恭(きょう)、礼に近ければ、恥辱に遠ざかる、

:(恭しい対応が、礼にかなっていれば、恥をかくことはない)

因(いん)、その親(しん)を失わざれば、また宗(たっと)ぶべきなり。

:(頼る人が、親しみやすさを失わないのなら、敬意を払うべきだ)

 

この逐語訳を基に、その意味を主観的に捉えて、今の社会に当てはまる教訓を見出すこと、日本語として自然になること、を意識して、次のように解釈しました。

訳:本ブログの主観読みによる解釈

物事を為す上で必要な要素というものがある。

その要素がどの程度織り込まれるのかが、その物事の成否に影響する。たとえば、

1.約束に必要な要素に「義(道理に適うこと)」がある。

約束に、「義」が全くないのなら、約束を交わしてはならない。

約束をするなら、できる限り「義」に適うようにしなさい。

「義」に適うほど、約束が果たされる確率は高くなるだろう。

2.丁寧に敬意を表したいときの振る舞いに必要な要素に「礼の形式」がある。

その振る舞いに、「礼の形式」が全く見られないなら、恥をかくだろう。

丁寧に敬意を表したいのなら、できる限り「礼の形式」に適うよう振る舞いなさい。

「礼の形式」に適うほど、恥をかく確率は低くなるだろう。

3.リーダーに必要な要素に「親しみやすさ」がある。

「親しみやすさ」が全くないと、リーダーとしての敬意は払われないだろう。

リーダーとして頼りにされる存在でありたいのなら、できる限り「親しみやすく」ありなさい。親しまれれば、リーダーとしての敬意を失うことはないだろう。

例1:信と義

「信」を「約束/約束を守る誠実さ」と捉えます。約束にとって大切な要素が「義(道理、正義)」です。例1の教訓は、「義」のない約束はしてはならない、約束をするならできる限り「義」に適うようにしなさい、ということです。契約も約束ですから、「道から外れた=不道徳な/反社会的な内容」が含む契約を交わしてはならない、「道理に合わないうまい話」に乗ってはいけない、という教訓にもなります。

例2:恭と礼

「恭」を「恭しさ=丁寧な敬意をもった振る舞い」と捉えます。その振る舞いにとって大切な要素が「礼の形式」です。例2の教訓は、「礼の形式がない=失礼な」振る舞いは恥をかくからやめなさい、丁寧に敬意をもった振る舞いをしたいのなら、できる限り「礼の形式」に従いなさい、ということです。前章の教訓も活かしましょう。礼は「和」を尊重しますので、関係者が共有する「節度」の範囲内で「礼の形式」に適えば恥をかくことはありません。「丁寧に敬意を表したい、かつ、恥をかきたくない」という要望には、今の私たちの社会では、様々なマナー教室が応えてくれます。孔子儒家たちは、2500年前のマナー教室の先生という側面を持ちます。

例3:因と親

「因」を「頼ること=その人についていくこと」と捉えます。ここでは、敢えて「頼られる側=リーダー」に注目して、リーダーの教訓を見出します。リーダーにとって大切な要素が「親(親しみやすさ)」です。例3の教訓は、リーダーに「親しみやすさ」がなければ、リーダーとしての敬意を払われなくなる、ということです。「親しみやすさ」は「好感度」あるいは「好感度を高める要素の一つ」として捉えることができます。リーダーも「好感度」が必要ということです。今の私たちの社会では、厳格なリーダーよりも、好感度が高いリーダーを求める傾向が強くなっている気がします。

では、古代中国では「リーダーの好感度」は意識されていたのでしょうか。2500年前の孔子の時代において古典とされる詩経に、衛の国の王(武王)を讃えたとされる「淇奥(きいく)」という詩があります。「切磋琢磨」の出典で知られた詩です。王をアイドルのように讃えている詩なのですが、その詩の最後で、その王のことを「善く戯謔(ぎぎゃく)すれども 謔を為さず=しゃれた冗談も言われるが、度を超すことはない。」(2)と述べています。この詩を読む限り、古代中国でもリーダーの好感度は重視され、「親しみやすさ」はその要素の一つだったと推察することができます。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

 

参照・引用

(1) 書き下し文と逐語訳は、以下を引用・参照、編集して採用させて頂きました

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

逐語訳:下村湖人『現代訳論語青空文庫

(2) 平賀光明他「孔子と『詩経』」白帝社 2020

 

 

 

 

 

第24回 学而第一(12)

論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。

今回は、学而第一(12)です。

 

学而第一(12)の書き下し文と訳

書き下し文『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCEを編集 

有子(ゆうし)曰く、礼の和をもって貴しとなす。先王の道これを美となす。

小大これによれば、行われざる所あり、

を知りて和すれども、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。

下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 有先生がいわれた。――

「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。」

 

前章の教訓(第23回参照)「手段の目的化に陥ってはならない」を本章にも適用します。

大切なことは目的を果たすこと。その手段として採用される「礼=形式」と「和=関係者の了解」との関係を本章のテーマとみなします。

 

:本ブログの主観読みによる解釈

礼も法も、目的(趣旨)に応じて採用される手段であり、形式(決まり)である。

その形式に従うことばかりに気を取られていると本来の目的を見失うことがある。

礼の特徴は、関係者の「和=快く了解されること」を尊重する点にある。

「和」によって形式を「程よく」変えてもよいのだ。

「和」が尊重されて目的を果たす礼は美しい。

公式の場でも、日常の場でも、礼はそのようにして採用される。

しかし、「和」を尊重した結果だからといって、形式を変え過ぎてしまっては、礼としての意味を成さず、本来の目的を果たせなくなる。

形式を変えるにしても、礼が持つ意味を損なわないよう節度を守る必要があるのだ。

礼も法も手段 ・・・ 「手段の目的化」に注意

礼とは、中国における社会秩序を維持するための生活規範のことであり、日常の礼儀作法,風俗習慣,年中行事,宗教儀礼,国家社会の制度などを含みます。(1)

礼も法も、どちらも形式(決まり)であり、それに従うことが求められます。

法の特徴は刑罰とセットになっていることです。刑罰があることで、法を守る人(形式(決まり)に従う人)が増えることが期待されます。その反面、刑罰を免れることばかりに注意が向き、本来の法律の趣旨が忘れられがちになります。そうして、形式(決まり)に従うという手段が目的化されてしまいます。

論語では「法律で人を導くのは宜しくない」と説きます。手段の目的化の弊害が大きいからです。(為政第二(3))。

礼は「和」を尊重する

礼も手段であり、本来の目的(趣旨)があります。たとえば、葬儀における礼であれば、特定の宗教の死生観に基づく儀式、宗教に関係なく故人の死を悼む、などの趣旨があります。その趣旨に適うよう形式(決まり)が決められていて、関係者はそれぞれの立場に応じた形式(決まり)に従います。

礼の特徴は、「関係者の了解」があれば形式(決まり)に幅を持たせることができることです。「目的(趣旨)が損なわれず、かつ、関係者が納得して共有できる、程よい形式(決まり)」を採用してもよいということです。

その「関係者が快く了解すること」が「和」であり、礼は「和」を大切にするのです。

「皆が快く了解して共有されている形式」は美しく見えるものです。

論語では「礼で人を導くのが望ましい」と説きます。「和」が尊重された礼に背くことは恥だと考えるようになるからです。(為政第二(3))。

「和を用って貴しとする」は民主主義の根本とも言えます。

2500年前の中国で民主主義の根本が語られていたのです。

節度が大切

数が多く、複雑な形式(決まり)を好まない人が多いでしょう。したがって、「和」を重視すると、形式(決まり)は簡素化に向かいがちです。

しかし、簡素化が過ぎると、その形式(決まり)を採用する意味が失われ、本来の目的も果たせなくなります。何事にも節度というものがあります。

また、そもそも、礼の形式(決まり)は、それ自体が節度を示していたとみなすこともできます。しかし、時代と共にその節度も変わっていきます。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

 

参照・引用

(1) コトバンク「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「礼」の解説