第17回 学而第一(7)

論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。

今回は、学而第一(7)です。

学而第一(7)の書き下し文と訳

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

子夏曰く、賢を賢として色に易(か)へ、父母に事(つか)へて能(よ)く其の力を竭(つく)し、君に事へて能く其の身を致し、朋友と交わり、言ひて信有らば、未だ學ばずと曰(い)ふと雖(いへど)も、吾は必ず之(これ)を學びたりと謂(い)はん。

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 子夏がいった。――

「美人を慕う代りに賢者を慕い、父母に仕えて力のあらんかぎりを尽し、君に仕えて一身の安危を省みず、朋友と交って片言隻句も信義にたがうことがないならば、かりにその人が世間に謂ゆる無学の人であっても、私は断乎としてその人を学者と呼ぶに躊躇しないであろう。」

 

孔子諸子百家のひとりと言われるように、当時は様々な学派があったと考えられます。したがって、孔子の弟子である子夏の言う「学んだ」は一般論ではなく「孔子の学問を学んだ」とみなすことができます。そのことを念頭に置いて解釈してみました。

 

訳:主観読みによる解釈

子夏弟子達に語った。

孔先生のような賢者を見出し、慕い、敬意を払い、その下で学び、

家庭、仕事、友人との人間関係において、学んだ道徳を実践している、

それが典型的な「(孔子の)門下生として学んだ者」の姿であろう。

ところで、もし、門下生ではなくても、同じように実践できている者がいるなら、

私は、その者も門下生と同様に「学んだ者」とみなすだろう。

人の内実をみる

今の日本から考えてみましょう。高学歴、高職歴でも、その分野の専門家としても、「人」としてもどうかと思う者がいます。2021年10月元法務大臣による公選法違反の罪が確定しました。このような事例はたくさんあります。それにもかかわらず、私たちの周りには、学歴・職歴ブランドが大好きで、それだけで人を判断する人がいます。

孔子の時代もそうだったのでしょう。だから、学歴という「人の外見」よりも「人の内実」の大切さを説くことには意味があったのだと思います。

様々な学派がある中で、孔子門下は当時の学歴ブランドだったと考えられます。そのブランドに憧れて入門した弟子もいたことでしょう。そのような弟子達に、子夏は「君たちは孔子門下というブランドを求めてやってきたわけではなく、孔先生という賢者を見出し、慕い、その下で学びたいと思ってやってきたはずだね」と釘を刺しているようにも思えます。そして、大切なこととして実践を挙げます。詳細に言えば「根本を理解し、基本を実践し、成果を出している」となります。そして「それができていれば、学歴は関係ない」と結論づけます。その主張には説得力があります。

孔子門下というブランドの中枢にいながら、そのブランドには本質的な意味は無いのだと説いているわけです。趣があります。

賢者を見出し、敬意を払う

今の日本では、新自由主義的な政策が浸透していて、教育や学問(研究)においても、国などの「公」による金銭的な支援が削減され、「私」の負担が増えています。その結果、賢くても経済的な理由で高等教育を受けることができない若者が増え、将来有望な研究でも「今稼げない」ことで研究を進めることができない研究者が増えています。

今の日本は「賢者を見出し、敬意を払う」ことをしない国になりました。

「光で化学反応を起こす光触媒を発見し、ノーベル賞候補にも名前が挙がる藤嶋昭・東京大特別栄誉教授が8月末に、自ら育成した研究チームと共に中国の上海理工大に移籍した。(毎日新聞 2021/9/2)」というニュースがありました。

日本でお金を工面できない賢者は海外に活躍の場を見出すしかないのかもしれません。

そして、「(能力の有無に関係なく)金はある」という人物が高学歴、高職歴を占めていくことになるのかもしれません。

 

教訓:本章の教訓をまとめます。

有能な人物を判断するのに役立つ二つの着眼点がある。

1.その分野の根本を理解し、基本を実践し、成果を出していること

2.その分野の賢者を識別し、その賢者を慕い、敬意を払うことができていること

そのような人物であれば、学歴や職歴を問う必要はない。

 

今回はここまでです。

本章に限らず、論語ではよく賢者に言及します。論語より古い『詩経』にも賢者に対する言及がみられます。賢者への関心は中国の文化的伝統であることが分かります。

次回は『詩経』を紹介します。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。