論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。
今回は、学而第一(11)その1です。
学而第一(11)の書き下し文と訳
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE
子曰く、父在(いま)せば其の志を觀(み)、父沒すれば其の行を觀る、三年父の道を改むる無きは、孝と謂(い)ふ可(べ)し。
先師がいわれた。――
「父の在世中はそのお気持を察して孝養をつくし、父の死後はその行われた跡を見て、すべての仕来りを継承するがいい。こうして三年の間父の仕来りを改めず、ひたすら喪に服する人なら、真の孝子といえるであろう。」
前回(第21回)、学而第一(9)では、
「道徳の根本は人を大切にし、人との関係を大切にする心にあり、その根本に基づく道徳は、その人が生きているときだけに限られるわけではなく、その人が亡くなったときでも、亡くなった後でも、実践することができる」
ということを述べました。
本章は、「孝」という道徳について、その具体例を述べています。
訳:本ブログの主観読みによる解釈
親が存命中は、親の考えを尊重して、親に敬意を払う。
親が亡くなった後は、親が遺したものを尊重して、親に敬意を払う。
そうして、親の考え、遺したものの意味をよく考え、それらを軽々に変えるようなことはしないようにする。
熟慮した上で、変える必要があると判断したなら変えればよい。
そのように敬意をもって親に接するのが孝である。
ハビトゥス(habitus)
孔子が生きた2500年前は、男社会であり、身分社会でした。歴史的に見れば、つい最近まで、日本もそうでした。本章にはその社会の反映が見られます。今の私たちにとっては、父と限定せずに、親として解釈するのが妥当です。そして、「其の志を觀、其の行を觀」に着目してみます。そうすると、ハビトゥスが思い浮かびます。
ハビトゥスとは「生活の諸条件を共有する人々の間に形成され、その集団の中で持続的かつ臨機応変に知覚・思考・行為を生み出す原理としてはたらく、心的諸傾向の体系。 フランスの社会学者ブルデューが提起した概念」(1)のことで、簡単に言えば「家庭環境などを通して形成される、私たちの好みや考え方の傾向」のことです。その傾向は、自然に形成され、習慣のようになっています。たとえば、母親が、クラッシック音楽が好きで、クラッシック音楽をよく聴いていたという家庭環境で育った子供は、自然とクラッシック音楽が好きになるでしょう。それがハビトゥスです。
ハビトゥスに注目すれば、本章は、子供に対して「ハビトゥスを自覚して、その形成に関わった親に敬意を表し、それを大切にしなさい」とも読めます。一方で、それを親の立場で読めば「子供は親を見てハビトゥスを形成する。親はそのことを理解して行動しなさい」が含意としてあると解釈して、それを教訓として読みとることもできます。
儒教の死生観に基づいた「子」の役割を考えれば、「孝」は明らかに「子」の道徳なのですが、今の私たちにとっての意味を見出すために、非宗教的な側面から捉えてみると、そこから親の教訓を見いだせることも少なくありません。
事業継承
本章を読んで「事業継承の教訓」を読み取る人も多いと思います。
大塚家具の創業者とその長女の経営権をめぐる争いは事業継承の難しさを知らしめました(2)。事業を引き継ぐ者としては、これまでのやり方に縛られずに、自分がやってみたいと思うやり方にチャレンジしたいと思うのは自然なことです。
それに対して「前任者の考え方、構築した仕組みなどを、敬意をもって再評価し、軽々に変えることはせず、熟慮した上で、変えるべきと判断したのなら変えなさい」というのが本章の教訓です。
孔子は「先人達が築き上げたものには、先人達の思い、知恵、経験が織り込まれていて、今でもそれは意義を持つ」と考えていました。だから、それを安易に変えてはならないと考えていました。「変えるな」というのではなく、「変えるときには熟慮せよ」ということです。
世界的に見て、日本は、100年以上続いている会社の数が多いことはよく知られています。そのような会社のほとんどは、同じ事業を続けてきたわけではなく、事業環境の変化に応じて事業内容も変化させてきました。変わることは大切です。しかし、変えて失敗した事例もたくさんあります。その中には、必要もないのに変えて失敗したものもあります。「何を変えて、何を変えずに守るのか」をよく考えることが大切なのです。
今回はここまでです。
注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。
参考・引用
(2)日本経済新聞「大塚家具の経営混乱、父と娘が対立」2015年2月27日