第24回 学而第一(12)

論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。

今回は、学而第一(12)です。

 

学而第一(12)の書き下し文と訳

書き下し文『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCEを編集 

有子(ゆうし)曰く、礼の和をもって貴しとなす。先王の道これを美となす。

小大これによれば、行われざる所あり、

を知りて和すれども、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。

下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 有先生がいわれた。――

「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。」

 

前章の教訓(第23回参照)「手段の目的化に陥ってはならない」を本章にも適用します。

大切なことは目的を果たすこと。その手段として採用される「礼=形式」と「和=関係者の了解」との関係を本章のテーマとみなします。

 

:本ブログの主観読みによる解釈

礼も法も、目的(趣旨)に応じて採用される手段であり、形式(決まり)である。

その形式に従うことばかりに気を取られていると本来の目的を見失うことがある。

礼の特徴は、関係者の「和=快く了解されること」を尊重する点にある。

「和」によって形式を「程よく」変えてもよいのだ。

「和」が尊重されて目的を果たす礼は美しい。

公式の場でも、日常の場でも、礼はそのようにして採用される。

しかし、「和」を尊重した結果だからといって、形式を変え過ぎてしまっては、礼としての意味を成さず、本来の目的を果たせなくなる。

形式を変えるにしても、礼が持つ意味を損なわないよう節度を守る必要があるのだ。

礼も法も手段 ・・・ 「手段の目的化」に注意

礼とは、中国における社会秩序を維持するための生活規範のことであり、日常の礼儀作法,風俗習慣,年中行事,宗教儀礼,国家社会の制度などを含みます。(1)

礼も法も、どちらも形式(決まり)であり、それに従うことが求められます。

法の特徴は刑罰とセットになっていることです。刑罰があることで、法を守る人(形式(決まり)に従う人)が増えることが期待されます。その反面、刑罰を免れることばかりに注意が向き、本来の法律の趣旨が忘れられがちになります。そうして、形式(決まり)に従うという手段が目的化されてしまいます。

論語では「法律で人を導くのは宜しくない」と説きます。手段の目的化の弊害が大きいからです。(為政第二(3))。

礼は「和」を尊重する

礼も手段であり、本来の目的(趣旨)があります。たとえば、葬儀における礼であれば、特定の宗教の死生観に基づく儀式、宗教に関係なく故人の死を悼む、などの趣旨があります。その趣旨に適うよう形式(決まり)が決められていて、関係者はそれぞれの立場に応じた形式(決まり)に従います。

礼の特徴は、「関係者の了解」があれば形式(決まり)に幅を持たせることができることです。「目的(趣旨)が損なわれず、かつ、関係者が納得して共有できる、程よい形式(決まり)」を採用してもよいということです。

その「関係者が快く了解すること」が「和」であり、礼は「和」を大切にするのです。

「皆が快く了解して共有されている形式」は美しく見えるものです。

論語では「礼で人を導くのが望ましい」と説きます。「和」が尊重された礼に背くことは恥だと考えるようになるからです。(為政第二(3))。

「和を用って貴しとする」は民主主義の根本とも言えます。

2500年前の中国で民主主義の根本が語られていたのです。

節度が大切

数が多く、複雑な形式(決まり)を好まない人が多いでしょう。したがって、「和」を重視すると、形式(決まり)は簡素化に向かいがちです。

しかし、簡素化が過ぎると、その形式(決まり)を採用する意味が失われ、本来の目的も果たせなくなります。何事にも節度というものがあります。

また、そもそも、礼の形式(決まり)は、それ自体が節度を示していたとみなすこともできます。しかし、時代と共にその節度も変わっていきます。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。

 

参照・引用

(1) コトバンク「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「礼」の解説