第16回 学而第一(6)

論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。

今回は、学而第一(6)です。

学而第一(6)の書き下し文と訳

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

子曰く、弟子(ていし)入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹んで而して信、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しむ。行ひて餘力(よりょく)有れば、則ち以て文を學べ。

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 先師がいわれた。――

「年少者の修養の道は、家庭にあっては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、先ず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお餘力があるならば、詩書・礼・楽といつたような学問に志すべきであろう。」

 

本章を客観読みすれば、孔子が年少者に向けて教訓を語っているとみなすべきかもしれません。そのことを理解しつつ、敢えて、このブログでは「年少者に接する大人に向けた教訓」として解釈してみました。

 

訳:主観読みによる解釈

未熟で立場の弱い年少者には仁をもって接しなさい。その上で、

彼等の、孝、弟、信の実践を助け、道徳を経験的に学ぶ手助けをしなさい。

書物で道徳を学ばせるのは、その実践ができてからにしなさい。

論語読みの論語知らず

論語読みの論語知らず」ということわざが知られています。「書物を読んではいても、その精神を十分理解できず、実生活に生かせないことのたとえ」コトバンク)です。実践せずに、書物からの知識があるだけで分かった気になっていることを皮肉ったものです。私たちは、知的活動(将棋など)であれ、身体的活動(野球など)であれ、モノ作り(陶芸など)であれ、いきなり定跡本から入ることはしません。体験から入り、基本を身につけるところから始めます。それができて、ステップアップしたいときに、書物で学ぶことを始めます。ある程度基本ができていれば、書物に書いてあることも理解でき、自分の体験を修正し、補強することができます。このように、「体験から入り、基本を経験的に学ぶところから始めること」は普通に行われています。

本章は、道徳においてはどのようにして体験から入り、基本を経験的に学べばよいのかを示しているとみなすことができます。それを大人の立場から捉えます。

道徳の基本

このブログにおける「道徳の基本、根本についての考え方」は「学而第一(2):ブログ第9-11回」で詳しく延べました。その考え方を本章にも適用します。

道徳の基本は人間関係にあり、私たちが生まれたときの人間関係にその根本を見ることができます。それは「立場の弱い者を助ける」という仁です。仁から始まり、その応答として、孝、弟、信が生じ、それら内発的動機に基づく要素道徳で関係づけられた人間関係が調和します。その調和を体験し、その調和を担う一員として実践できるようになること、そして、その実践の経験を通して道徳の基本、根本を理解することが大切です。道徳において「体験から入り、基本を経験的に学ぶところから始める」とはそのことを指します。

パラドックスと確信

アキレスと亀」というパラドックスがあります。「アキレスが亀を追い抜こうとしても、亀のいる位置に足を伸ばせば、その間に亀は前に進むのでアキレスはいつまでたっても亀を追い抜くことはできない」というものです。私たちは亀を追い抜くことを実践で簡単に示すことができます。

実践で簡単に示すことができるのに、言葉で説明しようとすると難しいのがパラドックスです。パラドックスは、言葉という道具には限界があり、怪しい使い方ができることを教えてくれます。そして、実践に基づく確信が、怪しい言葉(巧言)から逃れる術になることを教えてくれます。

孔子は、そのような言葉の限界や怪しい使い方のことをよく知っていたので、道徳的実践から得られた確信、つまり、道徳的確信も、巧言から逃れる術になることを教えているのだと思います。だから、道徳的確信を持つことが言葉の前に必要だということを繰り返し説いているのだと思います。本章や「学而第一(3):ブログ第12回」の巧言令色、鮮し仁がその例です。

 

教訓:本章の教訓をまとめます。

未熟で立場の弱い年少者(子供や若者)には次のように接しなさい。

 まず、仁をもって彼等に接する。

 そして、それに応じた、彼等の、孝、弟、信の実践に応える。

この基本的な人間関係を通して、

彼等は、道徳の基本を知り、道徳的確信を深めることができるだろう。

 

今回はここまでです。

注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。