論語を楽しむブログです。このブログの楽しみ方については「第4回」を御覧下さい。
今回は、学而第一(16)です。学而篇の最後になります。
書き下し文と逐語訳を並べて示します。
学而第一(16)の書き下し文と逐語訳(1)
子曰く、
:先師がいわれた。――
人の己を知らざるを患(うれ)えず、
:「人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。
人を知らざるを患うるなり。
:自分が人を知らないということが心配なのだ。」
本章のように短い章は、文脈が定かではありませんので、様々な解釈が可能になり、正しい解釈を求めるのは困難です。一方で、文脈を自由に想定して楽しめるという面もあります。まずは、これまで学而篇で学んできたことを文脈とみなして解釈します。
人の己を知らざるを患えず
「ブログ第5回:学而第一(1)」に「人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」とありました。本章のこの節も同じ意味とみなすと次のように解釈できます。
「修養(学びや実践)を積むと、自分の評価が気になることもあるだろう。評価が低ければ落胆し、心も乱れるだろう。しかし、評価の如何にかかわらず、引き続き修養を積むしかないのだから、君子と言われるような人物は、人の評価を気にせず切磋琢磨しているものだ」と孔子は説きます。それが「人の己を知らざるを患えず」です。
人を知らざるを患うるなり
「ブログ第17回:学而第一(7)」では「賢を賢として色に易(か)え」、「ブログ第26回:学而第一(14)」では「有道に就きて正さば」とありました。君子は「賢者/君子/有徳の人」を識別して、その人から学びます。本章のこの節にもその意味が込められているとみなすと次のように解釈できます。
孔子は「自分の才能や実績を気にする前に、そもそも、他者の才能や実績を認めることができるくらいの見識を備えているのか?(備えていないだろう?)」と問い、「君子と言われるような人物は、己の未熟さを自覚し、切磋琢磨しているものだ」と説きます。それが「人を知らざるを患うるなり」です。
さて、ここからは、今の私たちに合う文脈を想定して解釈を楽しもうと思います。
2022年7月10日に参議院議員選挙がありました。いつもの事ながら、名前の知られた人に票が集まりました。議員に限らず、今の私たちにとっては「知られているか/認められているか」が大きな関心事になります。その文脈で本章を解釈してみましょう。
訳1:本ブログの主観読みによる解釈
「自分の良さを知って欲しい/認めて欲しい」と思うことがあるだろう。そのときに、
「その人は自分の良さを分かっていない」と嘆くのは賢いとは言えない。
「自分の良さをその人に分からせること」が大切なのではない。
「その人の関心(何を良いと思っているのか、など)を知ること」が大切なのだ。
そうして、その関心に合わせて、自分の良さを分かってもらうようにすればよいのだ。
訳2:訳1を「商品と顧客」にあてはめて解釈します
商品を顧客に購入してもらいたいときに、
「顧客は商品の良さが分かっていない」と嘆くのは賢いとは言えない。
「商品の良さを顧客に分からせること」が大切なのではない。
「顧客の関心(その商品に何を求めるのか、など)を知ること」が大切なのだ。
そうして、顧客の関心に合わせて、商品の良さを分かってもらうようにすればよいのだ。
マーケティングの世界では、プロダクトアウト/マーケットインという方法が知られています。
プロダクトアウトとは「商品を提供する側の価値観に基づいて商品を企画する方法」を言います。商品を提供する側が専門家集団であるときによく採用されます。
マーケットインとは「商品を購入する側(顧客)の価値観に基づいて商品を企画する方法」を言います。ターゲットとなる顧客の関心、好みなどを調査し、分析して売れる商品を企画します。
それぞれ、一長一短があり、単純ではありませんが、歴史的に見れば、昔はプロダクトアウトが主流でした。情報技術の向上に伴い分析力が高まり、今ではマーケットインが主流になっています。解釈2は、そのマーケットインの意義が語られています。
つまり、「孔子は2500年前に、マーケットインの意義を説いていた!」とみなすことができるわけです。凄いですね!
その本質は、解釈1にあるように、人間関係においても適用することができます。
このように、想像力を発揮して私たちに合う解釈を楽しむことができるのが論語の特長です。その特長により、論語はこれからも「その時代に相応しい解釈」が為されて、読み継がれていくことでしょう。
今回はここまでです。
注)この記事にある解釈は筆者の主観による解釈です。
参照・引用
(1) 書き下し文と逐語訳は、以下を引用・参照、編集して採用させて頂きました
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE